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残されたもの(時計(6))
 東沢氏がポケットから右手を出す。
 その掌の上には、小汚い腕時計がひとつ乗っていた。
 ところどころに渇いた泥がこびりつき、ガラス部分にひびが入っている。
 どことなく古臭さが漂う腕時計だった。
「これ、昔の彼女がくれたものだけどさ」
 彼はそういうと、時計をテーブルの上に置いた。
 ほんの少し、乱暴に。ほんの少し、畏れるように。

 二十年以上前、東沢氏が札幌に住んでいた頃の話だ。
 当時の彼女は、透き通るような白い肌をしたとても綺麗な人だった。
 そして、贈り物を考えるのが好きな、気配り上手な人でもあった。
 彼氏である東沢氏には、特にたくさんの贈り物をしていた。
 数々の贈り物の中に、腕時計があった。
 デジタルではなく、機械式のアナログなものだ。
 その時計を気に入った東沢氏は、いつも身に着け愛用していた。

 ある日、時間を確認しようと腕時計を見た。
(あ、割れてる……)
 時計のガラスに、真一文字のひびが走っている。
 どこかにぶつけちまったかな、と軽く舌打ちをしながら周りを見た。
 通りの向こうに小さな時計店を見つける。
 その店に飛び込み「ガラス部分の交換、できますか?」と店主に訊ねた。
 陰気な声で「サイズが合えばね」と返ってくる。
 時計を手渡し、店内をぶらぶらしながら暇を潰していた。
「あんたぁ、こりゃ駄目だよぅ」突然、店主が声を上げる。
 何が駄目なんですか? と訊ねると店主は無言のままぐいと時計を差し出す。
 裏蓋が外され、内部が丸見えになっていた。
 これが? と再び訊ねると店主は工具の先で時計内部を指す。
 よく見ると、歯車からゼンマイから全てが粉々になっていた。
 あんた、何したの? 車にでも轢かれたの? と店主が興味深げに訊いてくる。
 もちろんそんな覚えはない。
「これだけ壊れていると、修理をするより新規で買った方がいいね」
 店主が営業トークを開始した。
 慌てて店から撤退した。

 腕時計が壊れて、数日後。
 彼女から電話があった。
〈……別れましょう〉
 彼女の声が受話器から響く。
 予感がなかったわけでもない。
 東沢氏は、神奈川県の会社に就職が決まっていた。
「だから、結婚しよう、あっちで一緒に暮らそうっていったんだけどね」
 彼女はその申し出をあまり喜ばなかった。
 遠距離恋愛もできないし、札幌を出ることもできない。そう言っていた。
 そして、今日。
 彼女からの電話は別れを告げるものだった。
(彼女を取るか? 仕事を取るか?)
 東沢氏は幾晩も悩んだ。悩んで悩んで導き出した答えは――。
「仕事だったんだ」
 時計が壊れたのと同時に、彼女との愛も壊れたように思えた。

 春。東沢氏はいったん三重の実家に帰った。
 就職準備の為だった。
 荷物の整理をしていると、彼女から貰った品物がごろごろと出てくる。
(こいつらは、実家に置いていこう)
 ひとつひとつダンボールに突っ込みながら、ため息をついた。
 その様子を見た弟が訊ねてくる。
「兄さん、どうしたんだよ? 元気ないぜ」
 彼女と別れたんだ、と正直に答えると弟は驚いた顔をした。
 その顔を見たときに、ふと思いついた。
「おい。ちょっと付き合わないか?」
 弟を伴って、家の裏にある竹薮に歩いていく。
 ポケットからあの腕時計を出した。
「あいつとの思い出をここに捨てていくからさ。いいか? 見てろよ」
 一度ぎゅっと時計を握り締めてから、振りかぶった。
 力の限り、遠くへ時計を投げ捨てる。
 竹薮の中に差し込む光を受けて時計は一瞬きらりと光り、そのまま叢に消えていった。
 帰り道、弟は無言だった。
 彼女との絆を断ち切って数日後、東沢氏は横浜に旅立った。

 就職をしてからは多忙を極めた。
 彼女のことを考える間もないほどに。
 漸く仕事が一段落したとき、東沢氏は高熱を出して寝込んでしまった。
 張り詰めていた何かが切れたからかもしれない。
 ひとりアパートでうんうん唸っていると、突然侵入してくるものがいた。
 アパートの中にではない。朦朧とした意識の中に、だ。
 それは別れた彼女のお母さんだった。
 札幌にいるときにはずいぶんと良くしてもらったな、と思い出す。
〈あなたは、本当に娘と別れてしまうのですか?〉
 突然、訊ねられた。え? とまごついていると、更に訊ねてくる。
〈もう以前のようには、なれないのですか?〉
 ああ、そうか。僕と彼女の行く末が気になっているのだな。
 東沢氏は朦朧とした頭で考えた。
〈もう以前のようには、なれないのですか?〉
「……ごめんなさい。もう、昔のようにはなれません」
 搾り出すように答えると、彼女の母親は意識の中から出て行った。
(これは熱のせいだろうか。それとも夢か幻かな……)
 そういうことにして、大きくため息をついた。
 考えるのが面倒くさい。身体から力が抜ける。
 また、熱が上がったようだった。

 熱が引いたのは、数日後のことだった。
 体力の低下を感じた東沢氏は買出しを兼ねて、散歩に出かけることにした。
 ジャージにサンダル履き、という軽装で久しぶりに外に出る。
 まずどこから行くか、と歩いているときに、信じられないものを見た。
 透き通るほど白い肌。見覚えのある横顔。
「札幌にいるはずの彼女、だったんだ」
 何故ここに? もしかしたら僕を追いかけてきてくれたんだろうか? いや、僕の住所は教えていない。ならこれは偶然?
 いろいろなことが頭の中を駆け回る。
 その間に、彼女は街の中に紛れてしまいそうになった。
「おい! 待って! 待ってくれ!」
 大声を張り上げながら、彼女を追いかける。
 彼女は振り向きもしない。
 すう、と通りを渡り、路地に入っていく。
 病み上がりな上、サンダル履きだ。足がもつれそうになる。
 だけど、彼女に――。
 路地の中を懸命に追った。
 彼女の姿が路地の角に隠れた。
 東沢氏がその路地の角に立ったときには、もう彼女の姿は見えなくなっていた。
 袋小路が多く、たいして広くもない路地なのに。
 彼女はまるでシャボン玉がはじけるように消えてしまった。
 その日、東沢氏は病み上がりの身体をおして、半日かけて彼女を探し回った。
 だが、彼女の姿は二度と見ることができなかった。

「それから気になったからさ。あとで札幌にいる友達に訊いてみたんだ」
 友人は「そりゃありえないよ」と笑った。
「あの娘の母親はちょっと前に亡くなっているんだ。お前が寝込んでいるときにはすでに……な。それにあの娘自身も病気で入院していたんだぜ。横浜になんか行けないよ」
 じゃあ、あれはなんだったんだよ!? と言いかけて、止めた。
 いくらここで言い争っても、答えは出ないことが判ったからだった。

 札幌の元彼女と会わないまま、数年が経った。
 東沢氏は横浜の職場を辞め、身を固めていた。
 もちろん、相手は札幌の彼女とは違う女性だ。
 幸せな家庭を築き、それなりに暮らしている。

 そんなある日のこと。東沢氏は古い荷物を整理していた。
 愛用していた机から、いろいろな品物が出てくる。
 ある種独特の臭気を伴って、青春の残滓が連なって出てくる。
 あ、これはあのときの。あいつがくれたっけ。
 お、これはまだあったのか。これもあいつが。
 え、これはここにあったっけ?
「ここにあるはずがないものばかり出てくるんだ」
 横浜に行く前に、札幌時代の荷物は殆ど実家においてきたはずだ。
 なら、これは? と考えたとき、ほんの少し背中に寒気が走った。
(今は考えない事にしよう)と作業を続ける。
 今度は引き出しの奥から見慣れない箱が出てきた。
 振るとコトコトと音がする。中に何か入っているようだ。
 開けてみるか。と蓋に手をかけたとき、心もとない気分になった。
 背中を無数の蟲が這うような。
 得体の知れない何かが尻の下から這い上がってくるような。
 これはなんだ?
 頭のどこからか〈開けるな〉という声が聴こえてくる。
 しかし。

 ええい、ままよ、と蓋を開ける。
 中身は腕時計だった。
 ここに入っているのがさも当然のように箱の底に収まっている。
 何故か湿った泥がべったりとこびりついていた。
 まるで、たった今泥の中から拾い上げたように。
 泥を指でこそげ落とす。
 くぅっ、と喉から空気が抜ける音がした。
 ガラスに入った、真一文字のひび。
「……竹薮に投げた時計だったんだ」

 これがその時計さ、と東沢氏はテーブルの上の時計を摘み上げる。
 今も捨てられないままさ、とまたポケットに入れた。
「だって……捨てられるわけないだろう?」
 少しだけ、その声は震えていた。

by 時計 ¦ 07:02, Monday, Nov 20, 2006 ¦ 固定リンク ¦ 携帯

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