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東沢氏がポケットから右手を出す。 その掌の上には、小汚い腕時計がひとつ乗っていた。 ところどころに渇いた泥がこびりつき、ガラス部分にひびが入っている。 どことなく古臭さが漂う腕時計だった。 「これ、昔の彼女がくれたものだけどさ」 彼はそういうと、時計をテーブルの上に置いた。 ほんの少し、乱暴に。ほんの少し、畏れるように。
二十年以上前、東沢氏が札幌に住んでいた頃の話だ。 当時の彼女は、透き通るような白い肌をしたとても綺麗な人だった。 そして、贈り物を考えるのが好きな、気配り上手な人でもあった。 彼氏である東沢氏には、特にたくさんの贈り物をしていた。 数々の贈り物の中に、腕時計があった。 デジタルではなく、機械式のアナログなものだ。 その時計を気に入った東沢氏は、いつも身に着け愛用していた。
ある日、時間を確認しようと腕時計を見た。 (あ、割れてる……) 時計のガラスに、真一文字のひびが走っている。 どこかにぶつけちまったかな、と軽く舌打ちをしながら周りを見た。 通りの向こうに小さな時計店を見つける。 その店に飛び込み「ガラス部分の交換、できますか?」と店主に訊ねた。 陰気な声で「サイズが合えばね」と返ってくる。 時計を手渡し、店内をぶらぶらしながら暇を潰していた。 「あんたぁ、こりゃ駄目だよぅ」突然、店主が声を上げる。 何が駄目なんですか? と訊ねると店主は無言のままぐいと時計を差し出す。 裏蓋が外され、内部が丸見えになっていた。 これが? と再び訊ねると店主は工具の先で時計内部を指す。 よく見ると、歯車からゼンマイから全てが粉々になっていた。 あんた、何したの? 車にでも轢かれたの? と店主が興味深げに訊いてくる。 もちろんそんな覚えはない。 「これだけ壊れていると、修理をするより新規で買った方がいいね」 店主が営業トークを開始した。 慌てて店から撤退した。
腕時計が壊れて、数日後。 彼女から電話があった。 〈……別れましょう〉 彼女の声が受話器から響く。 予感がなかったわけでもない。 東沢氏は、神奈川県の会社に就職が決まっていた。 「だから、結婚しよう、あっちで一緒に暮らそうっていったんだけどね」 彼女はその申し出をあまり喜ばなかった。 遠距離恋愛もできないし、札幌を出ることもできない。そう言っていた。 そして、今日。 彼女からの電話は別れを告げるものだった。 (彼女を取るか? 仕事を取るか?) 東沢氏は幾晩も悩んだ。悩んで悩んで導き出した答えは――。 「仕事だったんだ」 時計が壊れたのと同時に、彼女との愛も壊れたように思えた。
春。東沢氏はいったん三重の実家に帰った。 就職準備の為だった。 荷物の整理をしていると、彼女から貰った品物がごろごろと出てくる。 (こいつらは、実家に置いていこう) ひとつひとつダンボールに突っ込みながら、ため息をついた。 その様子を見た弟が訊ねてくる。 「兄さん、どうしたんだよ? 元気ないぜ」 彼女と別れたんだ、と正直に答えると弟は驚いた顔をした。 その顔を見たときに、ふと思いついた。 「おい。ちょっと付き合わないか?」 弟を伴って、家の裏にある竹薮に歩いていく。 ポケットからあの腕時計を出した。 「あいつとの思い出をここに捨てていくからさ。いいか? 見てろよ」 一度ぎゅっと時計を握り締めてから、振りかぶった。 力の限り、遠くへ時計を投げ捨てる。 竹薮の中に差し込む光を受けて時計は一瞬きらりと光り、そのまま叢に消えていった。 帰り道、弟は無言だった。 彼女との絆を断ち切って数日後、東沢氏は横浜に旅立った。
就職をしてからは多忙を極めた。 彼女のことを考える間もないほどに。 漸く仕事が一段落したとき、東沢氏は高熱を出して寝込んでしまった。 張り詰めていた何かが切れたからかもしれない。 ひとりアパートでうんうん唸っていると、突然侵入してくるものがいた。 アパートの中にではない。朦朧とした意識の中に、だ。 それは別れた彼女のお母さんだった。 札幌にいるときにはずいぶんと良くしてもらったな、と思い出す。 〈あなたは、本当に娘と別れてしまうのですか?〉 突然、訊ねられた。え? とまごついていると、更に訊ねてくる。 〈もう以前のようには、なれないのですか?〉 ああ、そうか。僕と彼女の行く末が気になっているのだな。 東沢氏は朦朧とした頭で考えた。 〈もう以前のようには、なれないのですか?〉 「……ごめんなさい。もう、昔のようにはなれません」 搾り出すように答えると、彼女の母親は意識の中から出て行った。 (これは熱のせいだろうか。それとも夢か幻かな……) そういうことにして、大きくため息をついた。 考えるのが面倒くさい。身体から力が抜ける。 また、熱が上がったようだった。
熱が引いたのは、数日後のことだった。 体力の低下を感じた東沢氏は買出しを兼ねて、散歩に出かけることにした。 ジャージにサンダル履き、という軽装で久しぶりに外に出る。 まずどこから行くか、と歩いているときに、信じられないものを見た。 透き通るほど白い肌。見覚えのある横顔。 「札幌にいるはずの彼女、だったんだ」 何故ここに? もしかしたら僕を追いかけてきてくれたんだろうか? いや、僕の住所は教えていない。ならこれは偶然? いろいろなことが頭の中を駆け回る。 その間に、彼女は街の中に紛れてしまいそうになった。 「おい! 待って! 待ってくれ!」 大声を張り上げながら、彼女を追いかける。 彼女は振り向きもしない。 すう、と通りを渡り、路地に入っていく。 病み上がりな上、サンダル履きだ。足がもつれそうになる。 だけど、彼女に――。 路地の中を懸命に追った。 彼女の姿が路地の角に隠れた。 東沢氏がその路地の角に立ったときには、もう彼女の姿は見えなくなっていた。 袋小路が多く、たいして広くもない路地なのに。 彼女はまるでシャボン玉がはじけるように消えてしまった。 その日、東沢氏は病み上がりの身体をおして、半日かけて彼女を探し回った。 だが、彼女の姿は二度と見ることができなかった。
「それから気になったからさ。あとで札幌にいる友達に訊いてみたんだ」 友人は「そりゃありえないよ」と笑った。 「あの娘の母親はちょっと前に亡くなっているんだ。お前が寝込んでいるときにはすでに……な。それにあの娘自身も病気で入院していたんだぜ。横浜になんか行けないよ」 じゃあ、あれはなんだったんだよ!? と言いかけて、止めた。 いくらここで言い争っても、答えは出ないことが判ったからだった。
札幌の元彼女と会わないまま、数年が経った。 東沢氏は横浜の職場を辞め、身を固めていた。 もちろん、相手は札幌の彼女とは違う女性だ。 幸せな家庭を築き、それなりに暮らしている。
そんなある日のこと。東沢氏は古い荷物を整理していた。 愛用していた机から、いろいろな品物が出てくる。 ある種独特の臭気を伴って、青春の残滓が連なって出てくる。 あ、これはあのときの。あいつがくれたっけ。 お、これはまだあったのか。これもあいつが。 え、これはここにあったっけ? 「ここにあるはずがないものばかり出てくるんだ」 横浜に行く前に、札幌時代の荷物は殆ど実家においてきたはずだ。 なら、これは? と考えたとき、ほんの少し背中に寒気が走った。 (今は考えない事にしよう)と作業を続ける。 今度は引き出しの奥から見慣れない箱が出てきた。 振るとコトコトと音がする。中に何か入っているようだ。 開けてみるか。と蓋に手をかけたとき、心もとない気分になった。 背中を無数の蟲が這うような。 得体の知れない何かが尻の下から這い上がってくるような。 これはなんだ? 頭のどこからか〈開けるな〉という声が聴こえてくる。 しかし。
ええい、ままよ、と蓋を開ける。 中身は腕時計だった。 ここに入っているのがさも当然のように箱の底に収まっている。 何故か湿った泥がべったりとこびりついていた。 まるで、たった今泥の中から拾い上げたように。 泥を指でこそげ落とす。 くぅっ、と喉から空気が抜ける音がした。 ガラスに入った、真一文字のひび。 「……竹薮に投げた時計だったんだ」
これがその時計さ、と東沢氏はテーブルの上の時計を摘み上げる。 今も捨てられないままさ、とまたポケットに入れた。 「だって……捨てられるわけないだろう?」 少しだけ、その声は震えていた。 |
by 時計 ¦ 07:02, Monday, Nov 20, 2006 ¦ 固定リンク
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