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「とても――色の白い、綺麗な人だったんだ」 気配り上手で、贈り物を考えるのが好きな人だった。 自分にはもったいないくらいの女性でね、と東沢さんは自嘲するように笑う。 彼の手には古い腕時計が握られていた。 これ、その彼女がくれた腕時計なんだ、とまた笑った。
遠い昔、東沢さんの恋人だった人の話だ。 まだ彼が小説家になる前、北海道に住んでいた頃。 当時、常に身に着けていた腕時計があった。 その恋人から贈られた腕時計で、とても気に入っていた。
ある日、時間を確認しようと腕時計を見た。 「あれ? 割れてる……」 時計のガラスに入った一文字のヒビ。 いつの間にぶつけてしまったのだろう? 全く覚えがない。 直さなくちゃ、と手ごろな時計店に立ち寄った。
「どれくらいで直りますか?」と店主に訊く。 店主は眉間に皺を寄せ、頭を振った。 え? ガラスを交換するだけができないんですか? と問い詰めた。 「そう言っても直らないよ。これ、見てみなよ」 裏蓋を開けられた時計を覗き込む。 中身が粉々に砕け散っていた。 歯車、ゼンマイ、全てがめちゃくちゃだ。 「これじゃ直せないだろう? 普通はここまで壊れるなんてないよ」 お客さん、新しい時計を買いなよ、と店主が勧めてくる。 それを断り、壊れた時計を手に店を出た。
腕時計が壊れてから数日が経った。 その日、彼女から電話が入った。 それは別れを告げる電話だった。 〈わたし、ここを離れることも、あなたについていくことも、できないの〉 東沢さんは、大学を卒業したら神奈川県に就職することになっていた。 彼女と別れることなど、まったく考えていなかった。 結婚しよう。それが駄目なら、遠距離恋愛をしよう。 そう彼女には伝えていた。 だが、彼女はそのどちらも選んでくれなった。 選んだのは〈別れ〉だった。
「僕もね、幾晩も悩んで……。だけど、最後は仕事を取ったんだ」 東沢さんの選択もまた、〈別れ〉だった。 彼女から貰った時計の中身のように、二人の間は粉々になった。 まだ外には雪が降り積もっている頃だった。
彼女と判れて数ヶ月が経った。 実家に一度帰って準備をしたあと、改めて引っ越しを行う。 職場は横浜だった。 仕事に忙殺される毎日。 恋人との別れの辛さも薄れてきた。 そんな頃。 東沢さんは過労からだろうか、高熱を出して倒れた。 自分以外誰もいないアパートで毛布に包まり、悪寒に耐える。 朦朧とした意識の中に、誰かがふわりと入ってきた。 <あなたは、私の娘と本当に別れてしまうつもりなのですか?> 意識の中に入ってきたのは、別れた恋人の母親。 ああ、ずいぶんと気に入ってもらっていたっけ……と東沢さんはぼんやりと考える。 <もう以前のようにはなれないのですか?〉 胸がつまりそうになる。 僕と彼女の行く末を案じてくれているのか。 だけど、もう二人で答えを出したんだ。 「ごめんなさい。もう、昔のようには――」 もう戻れない。 東沢さんが搾り出すような声で呟く。 それを聞いた彼女の母親はかき消すように見えなくなった。 夢か幻だったのか。 ただ、胸の奥に痛みが残った。
それから何日か経った。 熱はだいぶ引いている。 買出しついでに、近所を少し歩いてみることにした。 まだ少しだけ足がふらつく。 完治はまだだな、と顔を上げたとき。 (……あ!) 白い肌。あの横顔。 別れた恋人を街角に見かけた。 もしかしたら他人の空似かもしれない。 しかし、似ている。 もしかしたら、僕を追ってきてくれたのか。 あれだけ神奈川に、横浜に一緒に行かないと言っていたのに。 いや、僕の今の住所なんて知らないはずだ。 でも。もしかしたら。 無意識のうちに、足が追いかけ始める。 彼女はどんどん離れていく。 「待ってくれっ!」 思わず叫ぶ。 どうしても追いつけない。 彼女はそのまま大通りを通り、商店街へ続く路地に入った。 何度も角を曲がり路地を抜けていく。 どんどん差は開く。 何故追いつけない。何故彼女は僕に気がつかない。 彼女の姿が路地の陰に隠れた。 東沢さんも、その路地に入る。 「……え」 彼女の姿は、まるでかき消すように見えなくなっていた。 細く長い路地。他に入る場所はない。 なのに、どうしてだ。 東沢さんは、半日彼女の姿を求めて歩き回った。 が、どうしても彼女を見つけることはできなかった。 それから数年経った。 横浜の会社を辞め、東沢さんは身を固めた。 相手はあの別れた恋人ではなかった。
ある日、古い荷物を整理していた。 数々の懐かしい品物に混じって、前の彼女がくれたものが出てくる。 これは、あのときの。あ、これはあんなことがあったな。 札幌での思い出が蘇ってくる。 青春の残滓。甘さと苦さが入り混じった思い出。 もし彼女と。そう考えてしまってから、首を振る。 そのとき、ふと気付いた。 (……これは実家にあるはずだ) 東沢さんは彼女と別れ、就職するための準備で一度実家に帰っていた。 荷物の整理などをする目的だった。 そのとき、彼女との思い出の品は実家に全て封印してきたはずだ。 いや、もしかしたら記憶違いだったのかもしれないな、と作業を進めた。 「おや?」 引き出しの奥に見慣れない小箱が入っている。 なんだろう。 この箱を見ていると、心のどこかが落ち着かない。 小箱を少しだけ振ってみた。 コト、コトコトコト。 何かが入っている。何だ。何が入っているんだ。 そっと、蓋を開けた。
腕時計が入っていた。 壊れて、湿った泥に塗れている。 それはあの恋人から貰った、あの大事な腕時計。 まるで、ここにあるのが当然、といわんばかりに箱に収まっている。 だが、これは実家の裏にある竹やぶに捨てたはずだ。 彼女との別れが辛すぎて、時計を見るのさえ厭だったあの頃。 弟に付き添ってもらって、確かに竹やぶに投げ捨てた。 投げられた時計は叢に消えたはずだ。
それと同時に、もうひとつ心の底から浮いてきた記憶。 あの、横浜で熱を出した頃。 元恋人の母親は、その当時すでに亡くなっていた。 元恋人も、病に臥せっていた。 「だからお前がいた横浜には行けないんだよ」 札幌の友人から、そう教えてもらった。 いろいろな思い出といろいろな出来事が繋がっていく。 (そうか) 東沢さんは、箱を手にしたまま天を仰いだ。
「だから、これはずっと持っていよう……って」 東沢さんは、両の手で腕時計を優しく包み込んだ。 |
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