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時計(1)
「とても――色の白い、綺麗な人だったんだ」
 気配り上手で、贈り物を考えるのが好きな人だった。
 自分にはもったいないくらいの女性でね、と東沢さんは自嘲するように笑う。
 彼の手には古い腕時計が握られていた。
 これ、その彼女がくれた腕時計なんだ、とまた笑った。

 遠い昔、東沢さんの恋人だった人の話だ。
 まだ彼が小説家になる前、北海道に住んでいた頃。
 当時、常に身に着けていた腕時計があった。
 その恋人から贈られた腕時計で、とても気に入っていた。

 ある日、時間を確認しようと腕時計を見た。
「あれ? 割れてる……」
 時計のガラスに入った一文字のヒビ。
 いつの間にぶつけてしまったのだろう?
 全く覚えがない。
 直さなくちゃ、と手ごろな時計店に立ち寄った。

「どれくらいで直りますか?」と店主に訊く。
 店主は眉間に皺を寄せ、頭を振った。
 え? ガラスを交換するだけができないんですか? と問い詰めた。
「そう言っても直らないよ。これ、見てみなよ」
 裏蓋を開けられた時計を覗き込む。
 中身が粉々に砕け散っていた。
 歯車、ゼンマイ、全てがめちゃくちゃだ。
「これじゃ直せないだろう? 普通はここまで壊れるなんてないよ」
 お客さん、新しい時計を買いなよ、と店主が勧めてくる。
 それを断り、壊れた時計を手に店を出た。

 腕時計が壊れてから数日が経った。
 その日、彼女から電話が入った。
 それは別れを告げる電話だった。
〈わたし、ここを離れることも、あなたについていくことも、できないの〉
 東沢さんは、大学を卒業したら神奈川県に就職することになっていた。
 彼女と別れることなど、まったく考えていなかった。
 結婚しよう。それが駄目なら、遠距離恋愛をしよう。
 そう彼女には伝えていた。
 だが、彼女はそのどちらも選んでくれなった。
 選んだのは〈別れ〉だった。

「僕もね、幾晩も悩んで……。だけど、最後は仕事を取ったんだ」
 東沢さんの選択もまた、〈別れ〉だった。
 彼女から貰った時計の中身のように、二人の間は粉々になった。
 まだ外には雪が降り積もっている頃だった。

 彼女と判れて数ヶ月が経った。
 実家に一度帰って準備をしたあと、改めて引っ越しを行う。
 職場は横浜だった。
 仕事に忙殺される毎日。
 恋人との別れの辛さも薄れてきた。
 そんな頃。
 東沢さんは過労からだろうか、高熱を出して倒れた。
 自分以外誰もいないアパートで毛布に包まり、悪寒に耐える。
 朦朧とした意識の中に、誰かがふわりと入ってきた。
<あなたは、私の娘と本当に別れてしまうつもりなのですか?>
 意識の中に入ってきたのは、別れた恋人の母親。
 ああ、ずいぶんと気に入ってもらっていたっけ……と東沢さんはぼんやりと考える。
<もう以前のようにはなれないのですか?〉
 胸がつまりそうになる。
 僕と彼女の行く末を案じてくれているのか。
 だけど、もう二人で答えを出したんだ。
「ごめんなさい。もう、昔のようには――」
 もう戻れない。
 東沢さんが搾り出すような声で呟く。
 それを聞いた彼女の母親はかき消すように見えなくなった。
 夢か幻だったのか。
 ただ、胸の奥に痛みが残った。

 それから何日か経った。
 熱はだいぶ引いている。
 買出しついでに、近所を少し歩いてみることにした。
 まだ少しだけ足がふらつく。
 完治はまだだな、と顔を上げたとき。
(……あ!)
 白い肌。あの横顔。
 別れた恋人を街角に見かけた。
 もしかしたら他人の空似かもしれない。
 しかし、似ている。
 もしかしたら、僕を追ってきてくれたのか。
 あれだけ神奈川に、横浜に一緒に行かないと言っていたのに。
 いや、僕の今の住所なんて知らないはずだ。
 でも。もしかしたら。
 無意識のうちに、足が追いかけ始める。
 彼女はどんどん離れていく。
「待ってくれっ!」
 思わず叫ぶ。
 どうしても追いつけない。
 彼女はそのまま大通りを通り、商店街へ続く路地に入った。
 何度も角を曲がり路地を抜けていく。
 どんどん差は開く。
 何故追いつけない。何故彼女は僕に気がつかない。
 彼女の姿が路地の陰に隠れた。
 東沢さんも、その路地に入る。
「……え」
 彼女の姿は、まるでかき消すように見えなくなっていた。
 細く長い路地。他に入る場所はない。
 なのに、どうしてだ。
 東沢さんは、半日彼女の姿を求めて歩き回った。
 が、どうしても彼女を見つけることはできなかった。
 
 それから数年経った。
 横浜の会社を辞め、東沢さんは身を固めた。
 相手はあの別れた恋人ではなかった。

 ある日、古い荷物を整理していた。
 数々の懐かしい品物に混じって、前の彼女がくれたものが出てくる。
 これは、あのときの。あ、これはあんなことがあったな。
 札幌での思い出が蘇ってくる。
 青春の残滓。甘さと苦さが入り混じった思い出。
 もし彼女と。そう考えてしまってから、首を振る。
 そのとき、ふと気付いた。
(……これは実家にあるはずだ)
 東沢さんは彼女と別れ、就職するための準備で一度実家に帰っていた。
 荷物の整理などをする目的だった。
 そのとき、彼女との思い出の品は実家に全て封印してきたはずだ。
 いや、もしかしたら記憶違いだったのかもしれないな、と作業を進めた。
「おや?」
 引き出しの奥に見慣れない小箱が入っている。
 なんだろう。
 この箱を見ていると、心のどこかが落ち着かない。
 小箱を少しだけ振ってみた。
 コト、コトコトコト。
 何かが入っている。何だ。何が入っているんだ。
 そっと、蓋を開けた。

 腕時計が入っていた。
 壊れて、湿った泥に塗れている。
 それはあの恋人から貰った、あの大事な腕時計。
 まるで、ここにあるのが当然、といわんばかりに箱に収まっている。
 だが、これは実家の裏にある竹やぶに捨てたはずだ。
 彼女との別れが辛すぎて、時計を見るのさえ厭だったあの頃。
 弟に付き添ってもらって、確かに竹やぶに投げ捨てた。
 投げられた時計は叢に消えたはずだ。

 それと同時に、もうひとつ心の底から浮いてきた記憶。
 あの、横浜で熱を出した頃。
 元恋人の母親は、その当時すでに亡くなっていた。
 元恋人も、病に臥せっていた。
「だからお前がいた横浜には行けないんだよ」
 札幌の友人から、そう教えてもらった。
 いろいろな思い出といろいろな出来事が繋がっていく。
(そうか)
 東沢さんは、箱を手にしたまま天を仰いだ。

「だから、これはずっと持っていよう……って」
 東沢さんは、両の手で腕時計を優しく包み込んだ。

by 時計 ¦ 18:20, Friday, Oct 20, 2006 ¦ 固定リンク ¦ 講評(4) ¦ 講評を書く ¦ トラックバック(1) ¦ 携帯

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